(東京弁護士会達成会80周年記念誌掲載予定)




須賀敦子「ユルスナールの靴」の魅力について


関 智文


  10年前の達成会創立70周年記念誌に私は「藤沢周平『市塵』の魅力について」と題する小文を掲載した。それから今日までの10年の間に、私が出会って魅了された本はなんと言っても須賀敦子の著書であった。それはそう昔のことではない。私が須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」(文春文庫)をはじめて読んだのは3年前のことであった。その後、「ヴエネツィアの宿」「ミラノ 霧の風景」「トリエステの坂」と読み、最後にたどり着いたのが「ユルスナールの靴」(白水Uブックス)であった。須賀敦子は最初に世に出した「ミラノ 霧の風景」で講談社エッセイ賞を受けているのでエッセイストであるかのような印象をもたれているが、須賀淳子の作品はエッセイという分類では言い尽くせない人間的な深みを持っている。このことはどれか1冊を読んでみればすぐにわかることである。著名な小説家の中に須賀敦子のファンが多くいるが、この事実はそのことを物語っている。たとえば、芥川賞作家の川上弘美は「なぜ須賀敦子の文章の言葉は、こんなに柔らかいのだろう」とまで書いている。
  1998年に亡くなった須賀敦子が生前最後に出版したのが「ユルスナールの靴」であった。須賀敦子はユルスナールを愛した。それはユルスナールに深く共感したからだ。
  「ユルスナールの靴」は、後年世界中を旅行したユルスナールが3歳の時にどこかちぐはぐに履いていた靴の写真を見た須賀敦子が、そこから「生涯、ぴったりと足にあった靴をはいた、それ以外の靴をはこうとしない部類に属する人間として出発したのであろう」との感想を持ち、「ハドリアヌス帝の回想」を完成させるまでの魂の模索の過程を中心にして、ユルスナールの一生を追ったものだが、その中に須賀敦子自身の魂の模索と成長を重ね合わせたものである。さらに、ユルスナールがローマ皇帝であったハドリアヌス帝(紀元76年スペインに生まれ、紀元138年62歳の生涯を閉じた)の成長と一生を追い求めた経緯も重ねあわされているので、この本は須賀敦子とユルスナールとハドリアヌス帝の成長が重層的に語られていることになる。
  マルグリッド・ユルスナールは20世紀のフランスを代表する作家のひとりで、1903年、北フランスのフランドル地方の旧家の当主の娘としてベルギ−のブリュッセルに生まれた。母親はベルギーの人で、夫にとっては二人目の妻であったが、マルグリッドが誕生して数日後に産褥熱で他界した。1951年、「ハドリアヌス帝の回想」がフランスで発表されると、マルグリッドは一躍、世界的な名声を得ることになった。1981年にアカデミー・フランセーズの最初の女性会員に選ばれ、1987年12月17日、アメリカ東海岸のマウント・デザート島の病院で生涯を終えた。
  須賀敦子は本書のなかでユルスナールにつき「語彙の選択、構文のたしかさ、文章の品位と思考の強靭さ。それらで読者を魅了することが、ユルスナールにとっては、たましいの底からたえず湧き出る歓びであり、それがなくては生きた心地のしないほどの強い欲求だったにちがいない」と書いているが、これらの点こそが須賀敦子が生涯追い求めたものであった。だからこそ、須賀敦子はユルスナールに共感したのであった。さらにユルスナールが辿った魂の遍歴、それは「霊魂の闇」と表現された苦悩の時期を抜け出すまでの長い模索の過程であったが、そこにも須賀敦子は惹きつけられた。
  「ユルスナールの靴」を読むと3人の精神的な成長過程を自然に追うことができるが、それでいて読者自身の精神土壌が鋤で掘り起こされるような感想を抱かされる。また、ユルスナールを通して、ヨーロッパの知識人の教養が如何に深いものか、さらにはヨーロッパ文化とは一体どういうものかを知らされてしまう。ユルスナールは父親からギリシャ古典を教えられたことによりギリシャ文明に憧れを抱いていたが、ハドリアヌス帝もギリシャ文明を愛していた。それとともに、須賀敦子は、ユルスナールが26歳で第1作の「アレクシス」を書き上げた時、彼女の内面に点滅していたのはハプスブルグのウィーンを文化の中心とした古いヨーロッパ世界の明かりだったとも書いている。本書で語られるこれらのエピソードは、読者にギリシャ・ローマ世界と古いヨーロッパ世界の息吹を強く感じさせてくれるのである。そこに本書の魅力がある。
   (平成19・6・5)