(東京弁護士会達成会70周年記念誌掲載)
藤沢周平「市塵」の魅力について
関 智文
作家の藤沢周平が平成9年2月26日に亡くなった。享年69であった。藤沢周平が亡くなってから、まもなく、追悼特集の雑誌や追悼記事やグラビアが掲載された週刊誌が複数発行されたことを目の当たりにすると、藤沢周平の人気が高いことが今さらのように知らされた。藤沢周平の作品の中で人気の高いのは「蝉しぐれ」「用心棒日月抄」「三屋清左衛門残日録」のどの時代小説であるが、私が最も魅力を感じるのは「市塵(上)(下)」(講談社文庫)である。
「市塵」は徳川6代将軍家宣及び7代将軍家継に仕え、いわゆる「正徳の治」を開いた新井白石を描いたもので、歴史小説のジャンルに入るものである。藤沢周平が実在の人物を主人公にして小説を書くとき、当然ながら作者がその主人公に愛情や共感を抱いていることは間違いないところである。歌人長塚節を描いた評伝小説「白き瓶」や上杉鷹山を題材にした「漆の実のみのる国」がそれである。「市塵」を読むと、それらのなかでも藤沢周平にとって新井白石はよほど共感を覚えた存在であったことが感じられる。それは、藤沢周平は自分の経歴と比較して、新井白石に共通項を見いだしたからだと思う。第一は二人の境遇である。新井白石は長らく市井にあって浪人生活を続け、のちに6代将軍になる甲府藩主綱豊に進講する儒者として召し抱えられたのが37歳の時であり、その綱豊が思いがけず5代将軍綱吉の養嗣子になったため、それと伴い次期将軍の侍講になったのが48歳であったが、それは藤沢周平が37歳の年に小説を書き始め、46歳で直木賞を受賞したという経歴と似ている。そして、白石が6代、7代将軍に仕えた後、8代将軍吉宗に罷免されて、再び市井の生活に戻り、晩年を執筆で過ごす生き方にもひかれたのであろう。第二は二人が病気に苦しめられた点である。藤沢周平が24歳から30歳まで肺結核で療養生活を続けたことは知られているが、新井白石も体が弱く病気がちであり、特に腸が弱く下痢に悩まされていた点に藤沢周平は親近感を抱いていたと思われる。第三に藤沢周平が共感を覚えていたのは、新井白石の心意気であった。白石は37歳で甲府藩に儒者として召抱えられるまで、久留里藩の土屋家、古河藩の堀田家と二度も浪人をし、37歳のそのときは本所で私塾を開いていた。甲府藩に仕えることができたのは、学問の師である木下順庵の推挙によるものであった。私塾を開いていたころ、知人が白石に「あなたは当節将軍のおぼえめでたくないひとの家から出て、その上世間にもてはやされない学者の門に入った。これではたとえ学問がすぐれていても、立身するのはむつかしいだろう。いまの学問をあらためて、もっと出世の道を考えられてはいかがか」と忠告したことがあった。白石はその言葉に従わず、出世のために自分の生き方を変えなかったのである。もっと昔にさかのぼれば、22歳で土屋家を浪人して6年間にわたる苦しい浪人暮らしをしたとき、豪商河村瑞賢の孫娘との縁談が持ち込まれたことがあったが、その時も白石はことわっている。白石のその時の気持について藤沢周平は「もっと本音のところは、自分は自分らしくありたいということだった。おのれの力で、思うことをどのあたりまで遂げられるか試してみたいと、若い気持にうながされるままに、さだかにみえない前途に自分を賭けたのである。」と書いている。この「自分らしくありたい」という気持は藤沢周平の自負でもあったと言える。そしてまた、みずからの信念に生きた白石に感動を覚えたのであろう。このことが「市塵」の行間からひしひしと伝わってくる。
しかしながら、「市塵」は重い小説である。切り合いの場面などは一回も出てこない。話は六代将軍家宣の天下の経営を補佐して、五代将軍綱吉の悪政によりボロボロになった幕政を立て直すために病弱の体をおして苦労する白石の姿が重い筆致で、別の言い方をすれば淡々と書かれている。その辺りの固さが読者に人気を得られない理由からも知れない。しかし、多少我慢をして読み進めば、偉大な人間が人間的に描かれていて、読者は白石の苦労を我がことのように追体験することができる。そこに本書の魅力がある。
しかも、「市塵」を読むことにより、徳川時代の中で、五代将軍綱吉と八代将軍吉宗という有名な将軍の間の時代に、わずか七年間という短期間ながら生類憐れみの令の廃止や貨幣制度の立て直しなどの善政が行われたことが知ることができるのであり、それだけでも有益である。
最後に簡単に紹介しておくが、「市塵」は白石の自伝「折りたく柴の記」(岩波文庫)を下敷きにしたものである。ちなみに付け加えれば「折りたく柴の記」の題名は後鳥羽院の「思いいづる折りたく柴の夕けぶりむせぶもうれしわすれがたみに」の歌に基づいている。さらに「市塵」の題名は「市井紅塵」の略であろう。「市井」は庶民の社会のことであるし、「紅塵」は道路に立つ土けむりのことであって雑踏する繁華の地を形容した言葉である。いずれも庶民の暮らすまちなかを表している。この「市塵」という題名と白石の人生を描いた本書の内容との関係については本書を実際に読んでいただくしかないと思うが、藤沢周平にとって、白石は将軍の政治顧問を勤めた偉人としてではなく、市井の人としての存在であったということだけは言えると思う。
(平成9・4・26)