((平成23年2月刊・東京弁護士会発行「法律実務研究」第26号掲載)




機序に争いがある場合の医師の過失について


医療過誤法部
弁護士 関 智文
医 師 大西忠博


一 はじめに

  本稿は、医療過誤訴訟における機序と過失の関係について、一つの判決例を素材にして検討・紹介することを目的とする。
 近時の東京地裁の医療集中部の裁判官は因果関係を重くみるようになっており、患者側代理人にとっては、裁判官から機序が不明だと釈明させられたり、また因果関係についての立証が十分でないという理由で請求を棄却されたり、和解金額を低く抑えられる傾向にあると思われる。その底流には、裁判官が機序を重要視する傾向がみえる。
 医療過誤法部では医療事故発生の機序の分析・検討に重点を置いて研究してきたが、本稿で紹介する広島高裁岡山支部平成19年5月25日判決(原審・岡山地裁倉敷支部平成17年5月13日判決。高裁判決は判例時報2065号57頁に、原審判決は同誌同号63頁にそれぞれ掲載。)の判決(以下「控訴審判決」という。)の中心的な争点はまさにそれに関するものである。原審では医師の過失が認められて原告側が勝訴したが、高裁では逆転敗訴になったケースであり、結論が分かれた理由に機序が大きく影響している。そこで、その詳細を紹介して、本テーマについて考えたい。

二 機序について

  機序とは、一般的には、「作用するメカニズム、機構、仕組みのこと」を言うが、医療過誤訴訟では、結果(後遺障害や死亡)の発生に至るまでのメカニズムのことを指して使用されている。メカニズムという言葉もよく使用されるが、機序と同じ意味である。
 機序という言葉を聞いてもイメージが湧きにくいと思われるので、もう少しかみ砕いて説明すると、「機」とは「はた織り」の装置の動きをそれぞれの仕掛けに伝える部品のことを指したり、部品を組みたてて出来た複雑な仕掛けのことを指したりするが、それらのことから「事が起こる細かいかみあい」という意味をもっている。また、「序」とは順序のことで、ある基準による決まった並び方を指している。そのような意味から、医療事故関係事件では結果(後遺障害や死亡)の発生に至るまでの仕組みという意味で使用されている。
 このように、機序は問題となった医師の作為もしくは不作為から結果(後遺障害や死亡)の発生までの仕組みのことであるから、民事責任の要件を構成する因果関係の基礎をなすものである。しかし、因果関係そのものではない。すなわち、機序が判明しないと因果関係の存在を判断しにくいという面がある一方、機序がすべて判明しなければ因果関係が認められないという訳ではない。人間の身体の仕組みは非常に複雑であるから、結果(後遺障害や死亡)の発生までの仕組みがすべて解明されるものではないからである。機序の判明が十分でなくても、因果関係が認められることはある。
 そうは言っても、因果関係を認めさせるためには、機序について十分調査しておく必要がある。東京弁護士会が平成19年に開催した医療過誤法専門講座に講師として招かれた東京地方裁判所医療集中部の裁判官は、裁判所から釈明を受けない訴状について触れ、「機序、過失、因果関係なども十分に検討され、そのまま証拠調べまで、基本的枠組みが崩れない内容が盛り込まれた訴状」が百点満点の訴状であるが、それらは各医療集中部で平均8.3%しかないと嘆いた(弁護士専門研修講座「医療過誤訴訟の専門知識とノウハウ」279頁。ぎょうせい発行)。このようなことから、医療過誤訴訟を担当する弁護士は機序の主張・立証を重く見る必要がある。

三 本事案の概要

1 本件は髄膜炎で入院した患者が肺出血により気道閉塞を生じ窒息した場合に、鎖骨下静脈穿刺によって肺出血が生じたとは認めることが出来ず、その他気胸及び肺出血に対する治療が不適切であった等と認めることが出来ないとして医師の過失が否定された事例である。
2 訴外A(昭和47年8月生の女性、本件事故時25歳)は、平成10年7月3日、脳炎を疑われたことから、救急車でYの開設する病院(以下「Y病院」という。)に転院したが、同月5日、検査治療中に死亡した。
  そこで、Aの遺族であるXらは、Y病院の医師の過失によりAが死亡したとし、Yに対し、不法行為又は債務不履行に基づき、総額9000万円の損害賠償を請求した。
3 原審判決は、肺損傷が原因で肺出血が生じ、これにより気道閉塞が生じ窒息したとした上、Y病院の医師には鎖骨下静脈穿刺の手技の誤りがあったと判断し、Yの不法行為責任を肯認して、総額5330万円の支払いを求める限度で、本訴請求を認容した。そこで、Yは、原審判決を不服として附帯控訴した。
4 本判決は、① Aの死因は、肺出血により気道閉塞が生じて窒息死した可能性が高いとした上、②鎖骨下静脈穿刺によって肺出血が生じたと認めることが出来ない以上、担当医師に穿刺の手技上の誤りがあったということはできない、③気胸及び肺出血に対する治療が不適切であったということはできない、④ 髄膜脳炎に対する検査、診断及び治療に誤りがあったとは認められない、などとして、B病院の医師の過失を否定し、原審判決を取り消した上、Xらの本訴請求を棄却した。

四 事実経過

  控訴審判決が整理した事実経過は次のとおりである。
1 Aは、6月26日頃から頭痛、発熱があり、そのため同月29日、自宅近くの医院を受診した。翌30日、笠岡第一病院を受診し、同病院に入院した。
2 Aは、笠岡第一病院において、髄膜炎と診断されて治療を受けたが、症状が改善せず、7月3日、眼球が上転し、けいれん発作が出現し、脳炎の疑いがあったため、Y病院へ転院することとなり、救急車で搬送され、同日午後3時頃、Y病院神経内科に入院したが、転院前に笠岡第一病院で実施されたMRIでは、明らかな脳浮腫や脳実質病変は見られなかった。
3 Aは、Y病院に入院した直後、意識ははっきりしていたが、右への共同偏視と左上下肢の不全麻痺があり、ウイルス性髄膜脳炎であるとの前提で治療を受けたが、意識障害が徐々に憎悪し、左上下肢の強直性けいれんも生じるようになった。
4 Aは、同月4日午前9時30分頃、Y病院乙山医師が実施した右鎖骨下静脈穿刺により輸液のための中心静脈カテーテルが留置されたが、穿刺後第1回胸部レントゲン撮影を受け、また、Y病院丙川医師が行った腰椎穿刺により髄液が採取され、その結果、髄膜脳炎は無菌性のものである可能性がより高いことが確かめられた。
5 Aの全身症状は、その後も改善することなく、同日深夜から一時的な無呼吸状態が頻繁に生じるようになり、翌5日午前9時30分頃、経口より気管内挿管がされ、これにより気道確保をしてレスピレーター(人工呼吸器)を装着して呼吸管理が行われるようになった。
6 Aは、同日午前11時10分頃、第2回胸部レントゲン撮影を受け、右肺に明らかな病変(右肺上葉のほとんどが白濁)が認められ、更に同日午後3時05分頃、気管支鏡検査により、右気管支の奥から出血していることが確認されたが、止血できず、その後も全身症状は悪化の途をたどり、同日午後5時32分頃死亡した。

五 争点

  本訴訟で争われた点は、次の4点である。
1 死因
X(原告・被控訴人)は緊張性気胸が気管挿管後のレスピレターによる陽圧換気により進行した結果の循環虚脱(ショック)であると主張し、Y(被告・控訴人)はウイルス性髄膜炎及びそれに合併した肺病変であると主張した。
ここで「気胸」及び「緊張性気胸」について説明をしておきたい。「気胸」とは、胸腔内に空気又は気体の存在する状態を言い、原因は臓側胸膜(胸腔は、胸壁内面を覆う壁側胸膜と、肺を覆う臓側胸膜の間の空間で、生理的には両者は通常、密着しており、その間に空気などは存在しない)の穿孔のほか、胸壁(壁側胸膜)の損傷、横隔膜・縦隔・食道などからの胸腔への穿孔で起こる。一般に発症原因から① 自然気胸、② 外傷性気胸、③ 医原性気胸に区分される。外傷性気胸は交通外傷に合併し、医原性気胸は針穿刺、針生検の際の肺及び胸膜損傷のほか、気管内麻酔後の縦隔気腫に続発する。症状としては、胸痛、刺激性咳嗽(がいそう:「せき」のこと)、労作性呼吸困難の三徴候である。「緊張性気胸」とは、胸腔に流れ出した空気が心臓を含む縦隔を偏位させ、対側の肺を圧迫している状態をいう。この場合は、血圧低下、ショックを来たし、緊急に胸腔穿刺を行わなければ死に至る。心臓も肺も、血液が循環する上で必ず通過する臓器であるからである。緊張性気胸が起こった場合は、ドレナージでは時間がかかるため、迅速に穿刺を行う必要がある。緊張性気胸による呼吸困難に対しては、人工呼吸は禁忌とされている。胸腔内圧をさらに上げて肺の虚脱が亢進するためである。緊張性気胸・血胸では緊急手術が必要となることもある。
2 鎖骨下静脈穿刺における手技の誤りの有無
Xは、医師になって4年余りで比較的経験が少ない乙山医師が実施したため、静脈穿刺の針が胸膜を破って肺を損傷し、気胸、血胸、肺出血を生じさせたと主張した。
 これに対し、Yは、① 気胸は鎖骨下静脈穿刺によって起こる合併症であり、避けられないものである、② 肺出血につき、鎖骨下静脈穿刺で肺を損傷したとしても、それは右肺上葉のはずであるが、気管支鏡で観察した出血した部位は右肺上葉でないから、穿刺が肺出血の原因となったとは考えられない。また、胸壁外からの穿刺によって肺を損傷したのであれば、穿刺直後から喀血、血痰や血胸、進行する低酸素血症を認めていたはずであるが、穿刺直後の第1回胸部レントゲン撮影では、血胸は認められず、穿刺直後の喀血、血痰もないから、肺出血は穿刺によって生じた肺損傷に由来するものではない。③肺出血は、DIC(播種性血管内凝固)による可能性が大きいと主張した。
3 気胸、無気肺、血胸及び肺出血に対する治療が不適切であったか。
4 髄膜炎に対する検査、診断及び治療の誤りの有無。

 以上の四つの争点のうち、本稿では機序に関係する1の死因と2の鎖骨下静脈穿刺における手技の誤りの有無に絞り検討する。そして、直接的な死因については、原審判決も控訴審判決も肺出血により気道閉塞を生じ窒息死したと認定しているので、それを前提にする。それを前提にしてさらに争点を絞れば、脳髄膜炎で入院した患者が肺出血により気道閉塞を生じ窒息死した場合、その肺出血は鎖骨下静脈穿刺に起因したものといえるかという発生機序が中心的な争点になる。

六 控訴審判決の要旨と各鑑定の内容

  本訴訟では、4人の鑑定人が鑑定意見を述べているが、その意見は大きく二つに分かれているので、その鑑定意見を紹介した上で、それに対して裁判所がどのように判断したか紹介する。
1 死因について
(一)Aの死因につき、鑑定人尾崎眞は、第2回胸部レントゲン写真で気胸が認められたので、この時点で胸腔ドレナージを行って胸腔内圧を下げるべきであったにもかかわらず、胸腔ドレナージを行わなかった上、陽圧換気(人工呼吸換気)を行ったため、緊張性気胸が進行して急激な循環虚脱(ショック)が生じたと推測した。これに対し、鑑定人岩田誠は、緊張性気胸による循環虚脱(ショック)がAの死因となった可能性も否定できない旨判断している。
(二)控訴審判決は、次のように判断した。
(1) 確かに、Aにつき、第2回胸部レントゲン写真によって気胸が生じていることが判明し、7月5日午後1時頃、呼吸器内科の医師からレスピレーターを使用することで右肺の気胸が悪化するおそれがあることなどが伝えられたが、レスピレーターの使用がそのまま続けられたこと、一般に、気胸が生じた場合、レスピレーターにより陽圧換気を継続すると、吸気時に胸膜の開口部が弁様の作用を示し、呼気時にその開口部が閉じるため、胸腔内圧は陽圧となって緊張性気胸を引き起こすおそれがあることなどに照らすと、Aについて緊張性気胸が生じたと推測しても矛盾は無いと考えられる。
(2)しかし、Y病院は、本件訴え提起前の平成12年3月の時点において、Aにつき、7月4日の第1回胸部レントゲン撮影の時点で極く軽度の気胸が生じており、同月5日午前11時10分ころ撮影された第2回胸部レントゲン撮影時には気胸が拡大していたものの、同日午後2時10分ころ撮影された第3回胸部レントゲン写真では右上肺野の無気肺様の所見が認められるとはいえ、明らかな気胸の増悪は認められないと判断していたこと、Y病院放射線科医長丁原梅夫は、第3回胸部レントゲン写真では、右肺上葉に気管支透亮像(air bronchogram)が描出され、大葉性肺炎等の肺胞内に液体の貯留した状態や、何らかの理由で気管支が閉塞して肺胞内に液体の貯留した状態つまり無気肺が認められるが、血胸や緊張性気胸を積極的に示唆する所見は認められないと判断していること、高松赤十字病院医師井出眞は、第2回胸部レントゲン写真では、気胸がわずかに見られるものの、緊張性気胸への進展も見られない旨判断していることなどに照らすと、Aについて緊張性気胸が生じていたことを示す客観的な所見は当たらないと言わざるをえない。
(3)岩田鑑定人は、Aの死因としては、人工呼吸器を装着したにもかかわらず、酸素飽和度が十分に上昇していないので、肺出血が気道閉塞を生じ、窒息死に至った可能性が最も高いと考えられるが、その一方で、肺出血が始まる前から既に頭蓋内圧亢進による中心性脳ヘルニアに基づく中枢性過呼吸が生じていた可能性もあるため、この頭蓋内圧亢進が更に進行して小脳扁桃ヘルニアを生じ、延髄の圧迫によって、呼吸停止と共に血圧低下に至ったという可能性も否定できず、いずれにせよ、死亡の原因となり得る病態の有無は剖検によって確認以外に方法がないのに、剖検が行われていないので、死因を確定することは出来ないのであり、その意味で、緊張性気胸による循環虚脱が死因となった可能性も否定することができない旨判断しているに過ぎず、客観的な所見に基づいて緊張性気胸による循環虚脱が死因であると判断したものではないというべきである。
(4)したがって、Aの死因につき、緊張性気胸が気管挿管後のレスピレーターによる陽圧換気により進行した結果の循環虚脱であったと認めることはできない。
(5)「丙川医師は、死亡診断書において、Aの直接死因を肺出血、その原因を不詳、直接には死因に関係しないが上記傷病経過に影響を及ぼした傷病名を脳炎と記載した上、Aの死亡直後には、Xらに対し、痰が気管支に詰まったため、肺出血を引き起こしたと説明したが、その一方で、丙川らは病変を明らかにするため、Aの家族に対して、剖検を依頼したものの、これを拒否されたため剖検が行われなかったこと」、「岩田は、剖検が行われていないので、死因を確定することが出来ないと述べながらも、右肺組織のいずれかの部分から出血があり、この肺出血が胸腔内だけでなく気管支内にも及び、気道閉塞を生じて窒息に至った可能性が最も高いと考えられ、これを支持する所見として、人工呼吸器を装着したにもかかわらず酸素飽和度が十分に上昇していないことが指摘できる旨判断していること、」「元京都大学医学部教授泉孝英は、Aの死因につき、病理解剖が行われていないので、断定的見解を示すことはできないが、肺出血が認められており、7月5日の胸部レントゲン撮影で右上肺野に出血巣との関連病変と考えられる異常陰影が認められていることや、病歴を見ると、気道閉塞による窒息死以外の病態による死亡を考えることは困難であることから、肺出血による気道閉塞から窒息死に至った可能性が大きいと考えられる」旨判断していることなどが指摘でき、これらの諸点を勘案すると、剖検が行われていないため、Aの死因を特定することはできないものの、肺出血が気道閉塞を生じて窒息死した可能性が最も高いということ出来る。
(二)鎖骨下静脈穿刺における手技の誤りについて
(1)井出鑑定人は、鎖骨下静脈穿刺により中心静脈カテーテルを挿入する場合、その避けがたい合併症として気胸、また稀な合併症として血胸があり、これらの合併症が生じたかどうかは、胸部レントゲン撮影によってカテーテルの走行状態や先端の位置を確認することで明らかになるところ、Aに関しては、7月4日の穿刺後の第1回胸部レントゲン撮影の結果、出血は確認されていないので、1日経ってから穿刺により右下肺よりの肺出血が併発したと考えるよりは、Aの全身状態の悪化による呼吸循環障害、及び人工呼吸管理に伴う気道内圧の亢進による肺組織の損傷(圧損傷)が病態を形成していたと考える方が医学的合理性があると思われる旨判断している。また、岩田鑑定人は、鎖骨下静脈穿刺の合併症として気胸や血胸は珍しくないが、肺出血まで至ることは比較的少ないこと、鎖骨下静脈穿刺による直接の肺損傷で肺出血が生じたと考えるには、人工呼吸器を装着して強制換気をしたため、鎖骨下静脈穿刺に生じた肺損傷部位が拡大して肺出血した可能性があること、一方、鎖骨下静脈穿刺による肺損傷で既に気胸が生じていたため、鎖骨下静脈穿刺とは無関係な原発性の肺出血が拡がり、血胸が生じえる状態であった可能性もあることなどを指摘し、剖検が行われていない以上、肺出血の原因は不明であるといわざるを得ないと判断している。
(2)これらの諸点を勘案すると、穿刺直後の第1回胸部レントゲン撮影では出血が確認されておらず、また鎖骨下静脈穿刺によって肺出血まで生じるのは稀であるから、肺出血が生じた直接の原因が鎖骨下静脈穿刺であるとは認め難いというべきである。
(3)鎖骨下静脈穿刺により極く軽いとはいえ気胸(肺損傷)が生じているにもかかわらず人工呼吸器による強制換気を行った点につき、Y病院の医師に過失があったかどうかが問題となるというべきである。これについては、まず、鎖骨下静脈穿刺によりカテーテルを挿入する場合、合併症として気胸が生じることは避け難いものであることに照らして、極く軽度の気胸が生じたとしても、これについてY病院の医師に過失があったということはできないし、また、人工呼吸器を装着して呼吸管理を行ったのは、Aが過呼吸著名で開口困難な状態となったためで、緊急措置としてやむを得ないものであることに照らして、気胸が生じている状態で人工呼吸器を装着して強制換気を行ったとしても、これについてY病院の医師に過失があったということはできない。
(4)控訴審判決は、右と対立する鑑定意見を採用しなかった理由について、次のように述べた。
① 泉鑑定人は、7月4日午前9時30分頃の鎖骨下静脈穿刺と同月5日午後3時05分頃の気管支鏡検査による肺出血の確認までの間に1日余りの時間差があるとしても、鎖骨下静脈穿刺による肺損傷が細血管、小血管の小損傷である場合、当初の出血量は大量ではなく、かなりの時間経過を経て確認されるに至ることはあり得ることで、説明の出来ないことではなく、肺出血の原因としては鎖骨下静脈穿刺による肺損傷以外には考えられない旨述べている。しかし、泉鑑定人は、同時に、鎖骨下静脈穿刺によって肺損傷が生じることは稀であると述べている上、穿刺から肺出血の確認までの一日余りの時間差についても、説明のできないことではないと述べていつに過ぎず、その理由を具体的に説明していないこと、前述の井出及び岩田の各判断に照らし、鎖骨下静脈穿刺が直接肺出血の原因になったとする点は、直ちに採用し難いことを考慮すると、泉鑑定人の見解は、上記結論を覆すに足りるものではない。
② 尾崎鑑定人は、7月5日午後3時05分頃行われた気管支鏡所見として、「右へ進めると奥の方より奨液性の痰に加え、鮮血が無制限に出てくるのを認めた」、旨の記載があることから推測すると、右主気管支奥より喀痰と血液が出てきたのは末梢性の肺実質損傷があったためであると考えられ、この末梢性肺実質損傷が生じた原因としては、同月4日午前9時30分頃行われた鎖骨下静脈からの中心静脈ライン挿入操作によることが推測され、鎖骨下静脈穿刺の可能性が最も高いといえる旨判断している。しかし、尾崎鑑定人は、肺出血の原因は不明であると述べた上で、上記の可能性を指摘しているに過ぎず、しかも、穿刺から肺出血の確認までの一日余りの時間差があることについても、何ら説明していないので、尾崎鑑定人の上記判断を考慮しても、肺出血の直接の原因が鎖骨下静脈穿刺であると断定することはできない。

七 本件事案から学ぶべき点

1 以上の控訴審判決の見解を要約すると、まず、Aの死因については、Xが主張した緊張性気胸が発生していたのもかかわらず気管挿管後のレスピレターによって陽圧換気をしたため、緊張性気胸が進行した結果、循環虚脱(ショック)が起こったとの見解を否定し、緊張性気胸が生じていたことは認められないと認定し、死因は肺出血が気道閉塞を生じて窒息死した可能性が最も高いと述べた。
次に、鎖骨下静脈穿刺における手技の誤りについては、泉鑑定人と尾崎鑑定人の意見を採用しなかった。この点については、原審判決は泉鑑定人と尾崎鑑定人の意見に基づいてY病院の責任を認めていたので、まったく逆の結論となった。すなわち、泉鑑定人は「7月4日午前9時30分頃の鎖骨下静脈穿刺と同月5日午後3時05分頃の気管支鏡検査による肺出血の確認までの間に1日余りの時間差があるとしても、鎖骨下静脈穿刺による肺損傷が細血管、小血管の小損傷である場合、当初の出血量は大量ではなく、かなりの時間経過を経て確認されるに至ることはあり得る」と述べたのであるが、そのことを根拠として、肺出血が生じた直接の原因が鎖骨下静脈穿刺であり、鎖骨下静脈穿刺における手技の誤りを認定することについて、控訴審判決は、泉鑑定人は説明のできないことではない、言い換えれば可能性を述べたに過ぎないとして採用しなかったのである。
2 医療過誤法部の研究会に参加して頂いた医師の間でも見解が分かれ、原審判決と同様に泉鑑定人と尾崎鑑定人の見解に賛意を表する医師もおられた。この点から言っても、医療過誤訴訟における機序の解明が困難であることが窺われる。 本稿では、次項に、控訴審判決と同意見であった、病理学が専門の大西忠博医師(医学博士)の見解を紹介する。
3 最後に控訴審判決から学ぶことについて若干述べておきたい。本件事案は訴訟提起後に裁判の中で行われた鑑定意見が大きく対立したケースであるが、医療過誤訴訟においては機序が解明できない場合は医師の過失を認めさせることができないことを示してくれた。訴訟提起前に相談した協力医の意見が異なる場合には患者側弁護士としては、安易に患者側に有利な意見に乗って訴訟を提起することは避けなければならない。その見解の根拠となる医学的データが存在するか、存在しないかを十分吟味することが肝要である。本件事案であれば、緊張性気胸が存在したことを裏付ける医学的データを集めるということである。それが、集められなかった場合は依頼者によく状況を説明して、訴訟を提起した場合のリスクについて理解してもらい、その上で結論を出すべきであろう。それをせずに訴訟を提起した場合には結局は依頼者の期待を裏切ることになってしまうことがあることを肝に銘じておかなければならない。

八 本件事案に対する医学的考察

  本症例を解析した大西忠博医師の意見は次のとおりである。
1 緊張性気胸について
    本症例の場合、緊張性気胸があったかどうかがポイントであるところ、もしあったとすればその原因としては、7月4日午前9時30分頃に行われた「右鎖骨下静脈穿刺」が、壁側胸膜の損傷に止まらず、臓側胸膜、さらには肺実質を損傷した場合である。単に壁側胸膜を損傷しただけであれば、気胸は生じうるが緊張性気胸は生じることはなく、肺出血の原因にもならないと考えられる。控訴審判決は、7月4日の第1回胸部レントゲン撮影の時点で極く軽度の気胸が生じており、5日午前11時10分ころ撮影された第2回胸部レントゲン撮影時には気胸が拡大していたものの、同日午後2時10分ころ撮影された第3回胸部レントゲン写真では右上肺野の無気肺様の所見が認められるとはいえ、明らかな気胸の増悪は認められないと判断していたこと、すなわち、5日午前9時30分頃、経口より気管内挿管がされ、これにより気道確保をしてレスピレーター(人工呼吸器)を装着して陽圧呼吸による呼吸管理が行われるようになったと認定しているが、もしも、気道を閉塞させるほどの肺出血があり、その原因となるほどの肺損傷があるのならば、陽圧呼吸管理「直後」から緊張性気胸に陥り、ショックなどの症状が出るのが通常である。しかし、4時間半後の午後2時10分ころ撮影された第3回胸部レントゲン写真では、気胸は高度になっていなかった。また、同日午後3時05分頃、気管支鏡検査により、右気管支の奥から出血していることが確認されて、その後も全身症状は悪化の途をたどり、同日午後5時32分頃死亡したが、この間に、緊張性気胸による循環虚脱(ショック)の臨床症状は認められていない。したがって、緊張性気胸が存在の存在が確認されないのみならず、それが存在したとする蓋然性にも乏しいと考えられる。
2 肺出血の原因について
(一)7月5日午後3時05分頃行われた気管支鏡所見として、「右へ進めると奥の方より奨液性の痰に加え、鮮血が無制限に出てくるのを認めた」、旨の記載がある。このような肺出血(かなり深刻な肺損傷が存在する状況)が右鎖骨下静脈穿刺による肺損傷によるものであるとすれば、当然、陽圧呼吸管理下では速やかに緊張性気胸に進展すると考えられる。前述のように、緊張性気胸が存在してとする根拠は皆無であるから、鎖骨下静脈穿刺による肺損傷が原因となった肺出血とは考え難い(尾崎鑑定に対する反論)。
(二)控訴審判決が採用しなかった泉鑑定は、「7月4日午前9時30分頃の鎖骨下静脈穿刺と同月5日午後3時05分頃の気管支鏡検査による肺出血の確認までの間に1日余りの時間差があるとしても、鎖骨下静脈穿刺による肺損傷が細血管、小血管の小損傷である場合、当初の出血量は大量ではなく、かなりの時間経過を経て確認されるに至ることはあり得る」と言っているが、7月5日午後3時05分頃行われた気管支鏡所見として、「右へ進めると奥の方より奨液性の痰に加え、鮮血が無制限に出てくるのを認めた」、旨の記載がある。「鮮血が無制限に出てくるのを認めた」という状況と、「かなりの時間経過を経て確認されるに至る(じわじわと出血した、静脈性出血の意味と推測されるが不明)」状況とはかなり矛盾する。「5日午前11時10分ころ撮影された第2回胸部レントゲン撮影時には気胸が拡大していたものの、右肺病変は指摘されず」、「午後2時10分ころ撮影された第3回胸部レントゲン写真で右肺に明らかな病変(右肺上葉のほとんどが白濁)が認められ、更に同日午後3時05分頃、気管支鏡検査により、右気管支の奥から出血していることが確認された」旨の控訴審判決の記載から判断すると、7月5日午後午後3時頃から、肺外からの損傷によるのではなく、肺内の病変(おそらくは中小動脈の破綻ではないか)による出血が始まったものと思われるとのことである。
3 本症例の病因について
 Aは、6月26日頃から頭痛、発熱があり、そのため同月29日、自宅近くの医院を受診し、翌30日、笠岡第一病院を受診し、同病院に入院した。髄膜炎と診断されて治療を受けたが、症状が改善せず、7月3日、眼球が上転し、けいれん発作が出現し、Y病院神経内科に入院した。①転院前に笠岡第一病院で実施されたMRIでは、明らかな脳浮腫や脳実質病変は見られなかった。Y病院に入院した直後、意識ははっきりしていたが、②右への共同偏視と左上下肢の不全麻痺があり、ウイルス性髄膜脳炎であるとの前提で治療を受けたが、意識障害が徐々に憎悪し、左上下肢の強直性けいれんも生じるようになった。Y病院で行った腰椎穿刺により髄液が採取され、その結果、髄膜脳炎は無菌性のものである可能性がより高いことが確かめられた。
これらの経過所見の中で、②は、ウイルス性脳脊髄膜炎の症状としては、非定形的(偏側性の症状)であり、通常は、右側大脳(おそらく、被殻部)の限局性病変(focal lesion)が考えられる。例えば、脳梗塞、脳出血など考えられるが、若年女性であることから、通常の脳梗塞や脳出血とは考え難い。経過が本例の場合、急速なので、脳腫瘍でも同様の症状は出るが、その可能性は少ないと考えられる。しかし、限局性病変は、MRIによって否定されている(CTでは、脳梗塞の場合、発症直後は病変が描出されないが、MRIであれば、見えるはずである)。③の髄液所見も「無菌性」との判断は、髄液中に好中球が見られない、の意味と思われるので、大脳内の限局性病変を否定する根拠にはならない。
判決文を読んだ限りでは、その中には、本症例の発症から死に至る経過を十分に説明できる医学的証拠に欠けているので、Y病院の責任を否定した控訴審判決の見解に賛成する。
 本事例の裁判上の争点は、鎖骨下静脈穿刺からの臨床経過までに限られているが、頭痛などの神経症状で発症した時点からの解析を行うべきであった。すなわち、中枢神経系(大脳)の限局性病変を限局性血管病変と捉え、最後の肺出血を肺内中小動脈からの出血と仮定すると、全身の多発性の血管病変、例えば、多発性壊死性血管炎などが鑑別対象として挙げられる。そのような可能性が考慮される場合には、病理解剖による解析が必須であるが、本症例の場合は、病理解剖を実施しても十分に解明できない可能性が高いと思われ、きわめて稀なケースであったと思う。

以上