(東京三弁護士会多摩支部会報「多摩のひまわり」第6号)(平成12年1月刊)
司馬遼太郎「燃えよ剣」の舞台・南多摩
関 智文
私が、産まれ育った文京区の根津から現在すんでいる三鷹市中原一丁目に引っ越してきたのは約15年前のことであった。三鷹市といっても私の家は同市の最南にあり、家の前の道路は調布市との境界である。甲州街道との距離も百米もない。ここは南多摩と呼ばれる地域の東端に位置するが、南多摩は司馬遼太郎「燃えよ剣」の舞台となったところである。
ご存知のとおりこの小説は幕末の新撰組副長土方歳三を主人公としている。幕末ではどちらかというと近代化に向けて活躍した人物を好んで書く司馬が、近代化に逆らった土方歳三を取り上げたことに若干違和感を感じるかもしれないが司馬は土方歳三にはよほど愛着を感じたらしい。同書を一読すれば司馬の思いがひしひしと伝わってくる。司馬は土方を組織づくりの天才とみた。事実、土方歳三が熱中したのは新撰組を天下最強の組織に育てあげることであった。
新撰組はそれまでになかった独創的な組織であり、洋式軍隊の中隊組織を全体的に模範とした。それを鉄の組織にしたのは「士道に背きまじきこと」との定めを冒頭に掲げた局中法度である。しかし、土方にとって「士道」は懦弱な江戸時代の武士のそれではなく、自分が育った武州多摩に受け継がれた坂東の古武士のそれである。新撰組が鳥羽伏見の戦いで敗れたあと土方の胸に燃えつづけたのは戦い続けることであった。そして奥州各地を転戦した後、五稜郭の戦いで壮絶な死に方をする。「燃えよ剣」はこの土方に捧げた司馬の愛惜を込めた挽歌である。
同書には、近藤勇が生まれた調布の上石原、土方の実家のある日野の石田村、くらやみ祭りの府中大国魂神社、武州八王子の比留間道場と決闘する分倍河原など身近な地名が随所に出てくる。司馬は小説を書くためにたびたび多摩を訪れたそうだが、多摩の印象を端的に京都の土は赤いが多摩の土は黒いと書く。私にとって、多摩は死ぬまで戦いつづけた土方歳三の姿を折にふれ思いださせてくれる土地である。